やぁ、Natscoです。
今回は、難解な日本語、「お疲れ様です」の話。
常時反抗期の私が、何気ない挨拶として掛けられた「お疲れさまー」の声に「は?疲れてませんけど?」と悪態をつきかけたことから始まる、一連の「お疲れさま」考察です。
全体的にひねくれていますが、特に誰かを非難するような意図はありませんのであらかじめご承知おきください。
「お疲れさま」ってなんだ
私は「疲れるようなことは初めからしない」をモットーに生きている。しかし、疲労の如何に関わらず投げかけられる言葉が「お疲れさま」である。
私はこの挨拶が嫌いだ。本当に疲れている時はいい。しかし、なぜ、平常時に労われてるのか。そして「さぞお疲れでしょうに…」というこの語、「あぁ、私は今、疲れているんだなぁ」というアレを引き起こすと思う。言霊ってやつだ。あまり好ましい事ではない。
そもそも、この言葉は必要だろうか。「疲れ」とか「苦労」とか…そういったことって、無ければないで構わない。いや、むしろ無いほうがよくないか?
どこだったか、南の国の言語には「ストレス」を意味する単語がない、ということを、Pepparくんが教えてくれた。
一方でこの島国では「疲れている」ということを前提とした挨拶が存在している。なぜなのか。
「疲れていて当たり前」「苦労することは美しい」とするような合言葉が飛び交う背景には何があるのだろうか。
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彼である。
「お疲れさま」
この言葉について、探求するにあたっていくつかの論文を拝読した。そこで、「お疲れ」系挨拶に引っかかる部分を明らかにした部分に行きついた。日本語研究をされている倉持益子氏は、この言葉が広くもちいられるにあたって二つの理由があると述べている。
一つは、現在日本人にポジティブポライトネスを望む傾向が出てきたことである。(略)そこには、仲間を欲し、お互いに認め合うことで、孤独ではない楽しい生活を送りたいという意識が働いているのではないだろうか。(略)
もう一つは、現代日本人は「疲れていて当然」という社会心理的要因があるものと思われる。
倉持益子「『お疲れさま』系あいさつの意味の希薄性と拡大-職場での使い方を中心にー」『明海日本語』第13号』
ポジティブ・ポライトネスとは、「相手によく思われたい」「好感をもってほしい」というような欲求(ポジティブ・フェイス)を満たすこと。
相手を褒めたり、冗談を言ったりして距離を縮めるという西欧的発想に基づくこの概念は、敬語を用い一定の距離を保つことで敬意を示す日本的な発想とは異なっている。
それが若者を中心に仲間とのつながりを重視し、一体感を望む傾向が見られるようになったことで、「お疲れさま」という挨拶が広く使われるようになったと考えられる。相手を労わることで、あわよくば自分の好感度を上げようという欲求を満たすことができるわけだ。
この言葉について、以下もう少し詳しく調べます。
「ご苦労」「お疲れ」系挨拶の歴史
そもそも、「ご苦労さま」「お疲れさま」といった言葉はいつから用いられているのか。
倉持益子氏によると、労いの言葉として「ご苦労」は江戸時代の滑稽本、人情歌舞伎などで使われていたことが確認できている。現代では目上の人に使うと失礼、という考えが広まっているが、この当時「ご苦労」はむしろ目上の人間、もしくは同等の者への敬意を含んだ言葉だったようである。逆に、目下の人間に対する労いは「大儀」が用いられた。時代劇なんかでよく聞く「大儀であった」ってやつだ。
なお「大儀」という言葉には武士道的な古い価値観が含まれ、明治期の新政府は軍隊で用いる際、積極的に「ご苦労」を用いたために衰退していったのだと思われる。
明治以降に使われた労いの言葉は「ご苦労」系が主流である。
それは当時の文学作品を見ても明らかで、実際に青空文庫で「お疲れ」「ご苦労」をそれぞれ検索すると「ご苦労」の登場数の方が圧倒的に多くなる。
用法としては、「ご苦労さま」と、「様」の部分に敬意をこめて、やはり目上の人間に向けたものが大多数となっている。
それが転換したきっかけは、1980年代にかかれたマナー書において、「お疲れ」系が「職場で使いたいあいさつ」として紹介されたことだと倉持益子氏は指摘している。
なんでも「ご苦労」という言葉は「お疲れ」に比べて一方的な印を与えるからだそう。ちょっと賛成いたしかねる点であるが、ともあれ当時のマナー書は、「疲れ」という状態を共有し、より仲間意識を抱きやすい「お疲れさま」を推奨した。そして、企業のマニュアルに「お疲れさま」が採用され、アルバイトを中心に広まった。それが今日の「大学生、とりあえず出合い頭に『お疲れさま』って言えばいいと思ってる」問題につながっているのだ。
意味のないお疲れさま
大学生の言う「お疲れさま」には、別に労いの意図はない。
広く使われるにあたって本来の意味が揺らぐことは珍しい事ではなく、たしかに普段「さようなら」を言うときに「左様ならば」を意識することはない。
そんな感じで「お疲れさま」も「疲れ」とは関係ない意味を持つことになった。
ここでは様々な場面で用いる「お疲れさま」について考えてみる。
出会い頭の「お疲れさま」
会ったばかりに言われるパターン。「は?疲れてないし」の代表だ。まだ何もしてませんけど?私、そんな疲れた顔してます?ってなる。失礼ではないか。
これは多分、「『こんにちは』ってなんか使いづらい」問題が絡んでいる。「こんにちはー」ってあまり口語で用いない気がする。
おそらく、挨拶の「おはようございます」の「ございます」のように明らかな丁寧さがないからではなかろうか。「こんにちは」はこれ以上丁寧にしようがない。じゃぁもうなんか丁寧だし労わっているっぽい「お疲れさま」でいいやーみたいな風潮があるのだと思う。
そういえば『スラムダンク』の主人公が所属する湘北高校バスケ部の面々は、「チュース!」って挨拶をしている。要するに「こんにちは」を崩した形なんだろうけど、これ、cheers!っぽくてすごくいいと思う。士気が上がりそうだし、これにしませんか。
(すごくいい挨拶をする皆さん)
すれ違いざまの「お疲れさま」
廊下とかで、すれ違うとき、特に話しかけるような必要は無いけれど、でも無視するのは違うなぁ…な時に登場する「お疲れさま」
すれ違う一瞬で疲労度を判別しないでほしい。だから疲れてないってば!
これは多分、「日本人表情固くない?」問題だ。気持ちの良いすれ違いをするために「疲れ」を共有できる「お疲れさま」という挨拶で親近感を出している。
仲間意識を出したいならマイナス感情の共有よりも、もういっそ、ニコッと笑ってハイタッチでもしてくれた方が楽しい気持ちになれるのではないか。iPhone発売日みたいで私はいいと思う。
別れ際の「お疲れさま」
仕事からあがる際、他の人への声掛けとして「お疲れさま」。これはその日の仕事への労いの言葉であるので、疲れている可能性が他に比べて高い、本来の使い方っぽい。
だがそれが転じて、何でもかんでも別れ際に使うのはどうかと思う。誰かと出かけて「今日は楽しかったなぁ」と思ってる時に言われると水を差されるような、一緒に遊んだ人に言われたりすると「え?疲労度>楽しさですか??」ってなる。
いいじゃん、「さようならー」で。「じゃあねー」とか「またねー」とか「今日はありがとう」とか。
やはり、相手の体調を慮るような姿勢が和をアレするお国柄でしょうか。ならせめて「お気を付けてー」で十分である。「疲れている」ということを押し付けるのは良くないと思います。はい。
挨拶は日本を変える
挨拶のデフォルトが「お疲れさま」なのは、はっきり言って好ましくない。相手をいたわる気持ちは大切だが、共有する体験が別に「疲れ」である必要性はないだろう。
この言葉には、「疲れていることを当たり前」とし、「疲れを共有することが和」であり、さらに「疲れていることが美徳」とするような雰囲気が色濃くあらわれているように感じるの。言霊というか、むしろ刷り込みに近い作用ではないか。
いち早く、この言葉を撤廃し「お疲れさま」の呪縛から解き放つ必要があることを唱えたい。
いきなりは無理なので、とりあえず、なんかちょっと丁寧っぽい「お陰さまでーす」とかから初めて、幸せな気分になりそうな「ご馳走さまでーす」にスライド、ゆくゆくは「サンバー」とか「マンボー」とかハッピーな感じにできれば、その頃にはきっと愉快な社会が実現すると睨んでいる。
私からは以上です。
ありがとうございました。
とりあえずインド映画でも見ませんか?